株式会社 代表取締役 柴田 謙吾
顧客関係管理(CRM)/ マーケティングディレクター

1982年福岡県出身。九州工業大学大学院修了。25歳から41歳まで建設コンサルタントに従事。工学最高峰の資格である技術士を総合技術管理部門および建設部門2分野の計3分野で取得。

コンサルタントとは、クライアント固有の課題に対して実現可能な解決策を提供し実践することと考えている。個人に焦点が当てられる昨今の時代変化に鑑み、分野を建設からマーケティングに移し、顧客満足度の向上にフォーカスしたコンサルティングサービスを提供している。

25歳で東証一部上場企業に就職し、以来17年間建設コンサルタントとして従事。就職した当時から同社に勤めあげることを想定していたものの、35歳で多種の環境変化を起因として適応障害と診断され会社を休職する。これを機に初めてここに至るまでの自分の生き方に疑問を持ち、それまでの他責思考から、自分の選択の結果であることを自覚。以来人生やビジネスにおいて”目的”は何か、ゴールを見据えた戦略設計を重要視している。

会社員の傍らビジネス交流会ニーズマッチで2年以上主催を継続し、2024年4月の独立を機に株式会社 持続可能計画研究所を設立。これとともに新たにえびな会において主催の立場で支部を発足。現在は「顧客生涯価値の最大化を実現する顧客関係管理(CRM)およびマーケティングディレクター」として活動中。

幼少期から今に至るまで
柴田の人生もぜひご覧下さい

僕の一番根っこにある信念は、「やってみなければわからない」です。これまでの人生において、僕は常に自分でやってみなければ気がすまないと考えてきました。僕の自己紹介を兼ねて、これまでやってみたことをご紹介させていただきます。

僕は公務員の父、専業主婦の母の家に三兄妹の長男として生まれました。ごく普通の家庭でしたが、父も母も僕に何かを押し付けることはなく、わりと自由な幼少期を過ごしました。「何も押し付けられない」というのは、当時はあまり意識していませんでしたが、今思えばとてもありがたいことでした。両親は子供ながらの僕の気持ちをできるだけ尊重してくれていました。

周りはどうかというと、家を出たい、親がうざい、勉強は嫌いだ、というありがちな文句を口にする友達も多くいました。僕にとって家は居心地の良い場所であり、僕は自分のやりたいことに制限をかけずに生きていくことができました。

僕はどちらかと言えば、自分の気持ちをオープンにして人と接する人間です。その土台は、この幼少期の家族との関係の中でつくられてきたものだと思っています。

中学生のときの新聞配達

後から触れますが、小学校の頃から僕は勉強ができる方でした。公務員の父の収入は決して高かったわけではありませんが、生活に困ることはなく、ごく一般的な水準の生活をしていたと思います。ですが中学生の頃、友達が新聞配達をしてお金を稼いでいることを知り、無性に自分もやってみたいと思いました。

冒頭で書いた「やってみなければ気がすまない」ことの最初の一つがこの新聞配達です。当時は純粋に自分で使えるお金の額を大きくしてみたいという気持ちだけでした。新聞屋さんに電話をして「新聞配達をしたい」と伝えると、わりとすんなり「じゃあ一度店においで」ということになりました。当時のお給料は一ヵ月三万円で、中学二年生の秋から三年生の夏まで10ヵ月働きました。

今思えば、自分でやってみたいと思ったことに対する行動力は、当時からなかなかのものでした。このときの経験は、今に至るまで僕の中に自信という形で残っています。

高校生のときのピアノ

高校一年生の終わりに、僕が通っていた高校がカナダへのホームステイを企画してくれました。もちろん希望者のみですが。僕はやってみなければ気がすまない性質(たち)でしたし、海外になんとなく憧れを持ってもいましたのでこれを希望しました。今思えば気前よくカナダに行かせてくれた両親に感謝です。

カナダには二週間ほど滞在していましたが、その間いくつかの観光地も案内してもらいました。その中で博物館の観光があったのですが、ガイドさんが「誰か館内のピアノを弾いてみるか?」と促すと、僕の友人がさらっとトルコ行進曲を弾いて見せてくれました。そもそもその友人とは、同じ高校ではありましたがホームステイのときに知り合ったばかりでピアノを弾けることも何も知りませんでした。

僕は同級生がピアノを弾く姿に大きな衝撃を受けて日本に帰国しました。実は二人の妹が既にピアノを習っていましたが、僕はこれまでピアノに興味を示したことがありませんでした。しかし友人が弾いたトルコ行進曲は別物でした。雷に打たれるとはまさにこのことで、僕は帰国後早速独学でピアノを弾き始め、「エリーゼのために」を三か月ほどかけて習得したのを覚えています。

大学時代で出会ったジャズ

その後も高校の二年、三年とピアノ以外の記憶がないぐらいピアノだけをずっと弾いていました。それでも最後の半年ほどは受験勉強に集中し、なんとか国立大学に滑り込みました。大学ではピアノの延長でジャズに出会い、今度はジャズピアノをやることになります。このときジャズを通して得た仲間は、今も大切な友人であり、生涯の友となっています。

それこそ大学でジャズを知るまでジャズという音楽に興味を持ったことすらありませんでした。しかし実際に触れてみると、ジャズは非常に奥が深く、古典的なジャズもあればフュージョンのような電子機器を使うジャズもあり、僕はジャズにのめり込んでいきました。

僕はもともと生真面目な性格だったので、ジャズ部では部長を任されるようにもなりました。途中留年の危機はありましたが、結局留年することなく大学院まで進みました。大学四年生の頃から部活の外でバンド演奏をするなど、音楽仲間も増えつつ最高に充実した学生時代を送っていました。ただ、勉強の方はおざなりしていましたが。

大学院の入試でこけた話

僕はジャズを続けたい一心で就職ではなく大学院への進学を決めました。ただ夏の入試で落ちてしまい、わりとショックを受けていました。結局三月の入試で合格することができたので結果オーライということですが、当時は大学に残れるかどうかわからないまま大学四年生の夏から冬までを過ごしていました。そもそも就職すら決めていませんでしたので、三月の大学院の入試に落ちていればどうなっていたのか、今思えばふわふわした大学生でした。

僕は大学の研究室で海岸の埋め立て地を造る際の土砂の広がり方を研究していました。水環境や河川の治水に関する研究室に所属していました。先程も書いたように、僕はふわふわした大学生で、研究にさほど興味を持っていたわけでもありませんでしたが、この研究室が僕の就職先を決めたところがあります。

大学が四年、大学院は二年、僕は大学に六年間所属していたことになります。特に大学院の二年間は、部活の方は部長などの役目がない上に上級生ということで音楽だけをやっていれば良い状態でしたので本当に好き勝手にやっていました。

お店で演奏したり、美容室のパーティなどに呼ばれて演奏したり、中でも一番の思い出は最後の卒業ライブでしょうか。120人ほどのお客さんを呼んでお店のマスターを驚かせたのはいい思い出です。とにかくやってみなければ気がすまない性格で、もちろん失敗して思い出すだけでも恥ずかしい経験もたくさんしてきました。ビアホールで演奏したいと言って門前払いされたこともあります。

会社でコンサルタントをして得たもの

25歳で就職し、地元の福岡から埼玉に移ってきました。就職では、大学院で研究していた水環境や河川の知識が役に立ち、僕は河川に強い東証一部上場企業に就職しました。建設コンサルタントと呼ばれる仕事につき17年間勤めました。

建設コンサルタントというのは、国土交通省や都道府県、市町村などの自治体から公共事業の設計や計画の業務を受注する仕事です。身近なところでは、WEB上に掲載される浸水想定区域図や洪水ハザードマップを作ることなどもします。この仕事を通して得たものが3つあります。

①技術士(国家資格)
②35歳で休職し起業を志すきっかけになった
③仲間

1.技術士

技術士というのは、僕が大学で学んだ工学の分野では最高峰と言われ、取得難易度が非常に高い資格です。21の部門に分かれ、各部門に5~10個ずつほどの分野に枝分かれしています。試験は年に一回で、筆記試験の後に口頭試験があります。最初の一つめを取得するのに7年を要しましたが、最終的に3つの資格を取得することができました。

・総合技術管理部門:建設-河川、砂防及び海岸・海洋
・建設部門:河川、砂防及び海岸・海洋
・建設部門:建設環境

建設コンサルタントを通して得た一番大きなものは、論理的な思考力です。論理的な思考力というのは、全体を把握してその中から最適な方法を選ぶ考え方です。

例えば、Aという地点からEというゴールへの道のり考えたときに、B、C、Dという手段をとることができるとします。今のあなたの状況を踏まえた上で、Dを選ぶのが最適ですね、という考え方です。この考え方は一朝一夕で身につくものではありません。そしてこの全体のA~Eまでを俯瞰して捉えることができるからこそ、お客様に対してわかりやすい説明ができます。

下図はb-brainという脳タイプ診断の結果ですが、僕は左脳三次元と右脳二次元の働きが強いそうです。左脳三次元は、上で書いたような論理的な思考力を指し、右脳二次元は相手の気持ちを察する事を得意とします。僕の最大の武器は何かと訊かれれば、相手の気持ちに寄り添いながら論理的な最適解を選び取り、かつわかりやすく説明できることです。

下記画像をクリックすると拡大できます。

2.35歳で休職し起業を志すきっかけになった

技術士を取得した一方で僕は35歳でメンタルを病み、会社を休職することになります。直接的な要因は上司との人間関係にあったと思いますが、当時の僕は生活環境が大きく変わっていて、自分でも気づかないうちにストレスを蓄積していました。

・結婚
・転勤
・転居
・出産(妻がですが)
・子育て
・難易度の高い業務
・埼玉と札幌の気候の違い
・上司との人間関係

これらを積み重ねつつ5年ほどは頑張っていましたが、最終的に僕は適応障害と診断されました。当時、僕にとって休むこと自体が恐怖でした。もう会社に戻って来られないかも知れない、働けなければ自分も家族も生きていけない、この先どうすればいいだろうか。そう思いつつも心は休息を求めていて、半年間お休みしました。

独立し起業した今でもこの時のことははっきり覚えています。僕にとっては人生の非常に大きな転換点にあたります。このときの経験がなければ、僕は会社員以外の生き方を考えることはなく、会社で自分のやりたいことを我慢し続ける生活を続けていたでしょう。

もちろん当時はとても苦しい時期でしたが、今はこのときの出来事の全てに感謝しています。

この頃を境に、本を読み、人に会い、副業を始め、本格的にビジネスを始めるようになっていきました。また同時に、なぜ人は自分の生きる目的を考えることもなく会社で働くのか、もっと自分に素直に生きていく人が増えればこの国はもっと豊かになる、そう考えるようにもなりました。

国、会社、家庭、いずれのシーンにおいても僕達は、今この時をしのぐためだけではなく、10年先、20年先を見据えながら最適解を探し続けるべきではないのかと考えます。現代の情報伝達の速度に鑑みれば、未来につながらない古い慣習を捨て次々と新しいことに挑戦していく必要があるのではないか、そう考えるようになりました。

会社員をしていた自分から一歩引いて社会を眺めると、自分を押し殺して生きる人が多く、自分がその中にいて苦しんでいたことに気付かされます。

僕が「持続可能であること」にこだわる根源的な理由がここにあります。人はもっと自分の幸福に向かって生きていくべきなのだと僕は考えています。

3.仲間

僕は2024年3月末で会社を辞めて独立・起業しました。会社に勤めていたのは17年間で、その間転職もしていません。転職することで得られるものもあると思います。ですが僕の場合は17年という年月をかけて、やはり大学のときのような仲間との繋がりができたように思います。

仲間を大切にするということが僕の持ち味であると確信しています。前職の同僚とは、今でもテニスをしたり飲みに行ったりする仲ですし、今後も長くお付き合いしていく方も多いでしょう。

僕は仲間をとても大切にしていて、仲間がいるから人生は豊かになると信じています。「持続可能であること」とは、仲間を大切にすることだと考えています。この信念があるからこそ、今僕のビジネスは徐々に拡大してきています。

副業時代の挫折

会社で休職した後、僕はなんとか会社に復帰しました。しかし社会の見え方はそれまでと180度変わってしまっていました。以前と同じ気持ちで仕事をすることはできなくなっていました。これは悪い意味ではなく、むしろ視座が高くなったと言えます。ビジネスや経済に関する本を読み、自分がまずやるべきことは、自分の力でお金を稼いでみることだと考えました。

最初に取り組んだビジネスは、「せどり」という転売ビジネスです。コンサルタントの方に教えていただきながら、半年ほどで月商は200万円を超えるまでになりました。一見成功したかのようですが、新型コロナウィルスの蔓延とともに、僕の活動量は減少しそのまま低空飛行するようになります。

僕にはビジネスを続けていくマインドセットがなく、その後はブログに取り組んだり、不動産や株式の投資をやってみたりといろいろなことを試していましたが大きな結果にはまだつながっていません。

「やってみなければ気がすまない」という性質の通り、いろいろなことを試しつつも心が疲弊していった時期です。副業時代の最大の挫折は、自分が何をしたいのかわからずにさまよい続けていたことです。 一方で得られたことがあります。それは結局のところノウハウではなくマインドだと気が付けたことです

ビジネス交流会と志

副業=挫折だったわけではなく、THINGiというボードゲーム(遊びながら体系的にビジネスを学ぶことができる)のファシリテーター資格を取得したことで僕のビジネスは少しずつ広がっていくことになります。

副業の6年間のうち最後の2年間はニーズマッチというビジネス交流会で一支部を運営していました。それが今も続けている「はじめの一歩支部」です。ニーズマッチで支部を主催するきっかけになったのがTHINGiです。THINGiのコミュニティメンバーから主催に誘われ、承諾しました。また当社を立ち上げてからは「えびな会 中野支部 片山鳥肉店会場」を新たに発足しました。

僕ははじめの一歩支部を立ち上げて移行の2年間で年間500人以上の経営者の方々と接点を持つことができました。もともと会社で働くことに課題を感じ起業を志していた僕ですが、起業したから幸福になるわけではないということも、経営者の皆様とお会いしながら感じ始めていました。

僕は誰もが幸福になりたい気持ちを持って生きていると信じていて、普段これを意識しているかどうかはさておき、誰の心にもこの気持ちが根差していると考えています。

そうであれば、会社員であれ起業家であれ僕達は何をすれば幸福であると言えるのでしょうか。僕はそんなことを考えるようになりました。

一般的に言って、日本人は生活環境の面でとても恵まれているはずですが、幸福だと感じている人の割合が発展途上国よりも低いです。この国で失われた30年とは何か、なぜ日本人の幸福度は低いのか。僕はこの2年間考え続けていました。そうして辿り着いた答えが、持続可能な選択をするということです。

・持続可能なビジネスはどうすれば創れるのか
・持続可能な夫婦関係、親子関係の築き方は
・持続可能な会社の仕組みとは何か
・持続可能な地球との関わり方は

考え始めればきりのない問題もたくさんありますが、全ては僕達個々人の選択から始まります。僕はいつしかクライアントのビジネスに対して、安定した売上を創りつつ拡大していける持続可能なビジネスにしていくことを志すようになりました。もちろん僕自身のビジネスにおいても同じことです。 そのために必要なことこそ、企業理念に掲げている他者を豊かにすることにつながっていきます。

幸福の定義

「持続可能な選択をする」ことを信条とする一方で、僕達人間が目指す幸福な未来、幸福な気持ちとは何かを考え続けています。

今、僕なりに人の幸福感を定義するとしたら以下のような条件を満たすことはないかと考えています。

人と比較しないこと
自分の存在価値を信じられること
昨日までの自分と比較して成長すること

「人と比較しない」と言っても、ビジネスの上で他人や他社との差別化を考えることは必要です。ここで言いたいことは、自分の価値、よく自己肯定感や自己重要感という言葉で表されますが、これらが根底にあるということです。

弊社のビジネスが目指すもの

持続可能なビジネスとは何か、もう少し具体的にお話します。ビジネスの構成要素として特に基礎的な部分に位置付けられるのは、以下の3点だと考えます。

・資金
・人間関係
・成長の仕組み


どれほど素晴らしい商品、そして時代の波に恵まれようとも、これらの3つの歯車がかみ合っていなければビジネスは発展していきません。

弊社が提供するサービスは、まずクライアント企業の現状を上記3つの視点で解きほぐし、現状と課題を把握することです。課題がわかれば解決策を検討するだけです。

しかしながら、「まず現状を把握しましょう」というとそれを遠回りであると感じる方もいらっしゃるかも知れません。もちろんスピード感をないがしろにしてはビジネスの発展も何もありません。ただ、持続的に成長していく土台を築くこととスピード感とのトレードオフを検討する価値はあると考えています。

思いついたら即行動というスピード感を大切にしつつ、その中でも短時間で最適解を選択する瞬発力を磨くことが経営者に求められる資質ではないかと考えています。弊社はそうした瞬発力を提供していきたいと願っています。

もし貴社にとって成し遂げたい夢、創り上げたい未来、譲れない志があり、一歩一歩ではありながらも成長していく道を模索しているのであれば、ぜひ弊社と一緒に歩んでいきましょう。 いつでも貴社のお問合せをお待ちしております。